【いまできることを精一杯おこなう❕】
永井隆博士は、1908年、島根県に生まれ、長崎医科大学を卒業後、放射線医学の研究と患者さんの治療のために尽力した人です。
そのために白血病にかかり、余命3年と宣告されます。しかもその直後に原爆を受け、愛する妻と家財産を一瞬にして失ったのです。彼は悲しみのどん底のなかでも、自分が倒れるまで人命救助と医学の発展に尽くしました。
その後、ついに倒れ病床に伏します。 しかし、放射線医学者として、後世のために原爆の状況を記録に残しておかなくてはなりません。それに妻亡き後、二人の幼子を養うために生活の糧を得なければなりません。生活の糧以上に、あとわずかな命しか残されていない父親には、子どもたちのために残しておきたいものがあったはずです。彼は、自分のできることはすべてやろうと思いました。「この世になんの用事もないものが生かされているはずがありません。どんな病人でも何かこの世において働くことができるから、生かされているのでありましょう。私は、命の最後の一瞬まで、いろいろ工夫して、何か働く事を見つけて働こうと思います。」(永井隆(著)『如己随筆』より)
寝たきりの彼ができるただ一つの仕事は、書くことでした。「働ける限り働く。腕と指は動く、書くことはできる。書くことしかできない」もはや机に向かって書く体力は残っていません。仰向けになって、板切れに原稿用紙を張り付けて濃い鉛筆で、一字一字をマス目に埋めていきました。そして、短期間に驚異的な量と質の高い本を書き続けたのです。
『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』など、多くの本が当時の大ベストセラーになりました。それらの本や永井博士の思いや生き方は、映画や歌にもなり、敗戦で悲しみに沈む日本人の多くに希望を与え、励ましたのです。ついには、腕も指も動かなくなるまで、書きつづけ、その5日後に永井博士は亡くなります。体が動かなくなった彼にできることはごく限られたことでした。死を宣告されていたために時間もわずかしか残されていませんでした。そのなかで、自分のできることに精一杯尽力したのです。
私はこれまでよく永井隆博士の生き方や彼が残した言葉に励まされてきました。自分に苦しいこと、辛いことがあったとしても、この時の永井博士と比べれば全然大したことはないな、と思えます。そして、人間はどんな悲惨な状態でも、心に希望をもって前向きにがんばることができる、と思えるのです。平和を祈り、愛に生きた永井博士から、現代の子どもたちに勇気や愛をもって行動すること、平和に貢献する尊さを学んでほしいとの思いがあります。※「永井隆全集」(永井隆著)(サンパウロ)より参照
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GNグッドニュース NO1467 2020.1.17
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2020.01.17